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生かされている [『唯信鈔文意』を読む(その84)]

(8)生かされている

 ぼくはいま自分の部屋にいます。少し前までは居間で新聞を読んでいましたが、その後、ここに移動したのです。ですから、いま自分の部屋に「いる」のは、それを振り返ってみると、居間から移動「する」ことの結果であるとは言えるでしょう。しかし、だからと言って「いる」ことを「する」ことに還元することはできません。
 繰り返しですが、「いる」ことはあくまで「もうすでに」であるのに対して、「する」ことは「これから」であるからです。両者はまったく別の位相にあるのです。
 さて、「する」ことはすべて自力ですから、他力は「いる」ことにしかその居場所がありません。「これから」何かを「する」のは自力によるが、「もうすでに」ここに「いる」のは他力によると感じる。
 「生かされている」ということばの真理性はここにあります。
 宗教への激しい毀誉褒貶は、このことばに共感するか反感をもつかによるのではないでしょうか。「生かされている」と聞いて、「ああ、ありがたい」と思うか、「これだから宗教はいやだ」と思うか。この不幸なすれ違いは「生かされている」ということばの捉え方いかんにかかっています。
 「生かされている」ということばが弱々しい泣き言としか聞こえない人は「これから」に向かっていて、どのような人生を切り拓いていくか、何を「する」べきかを考えています。そして、「もうすでに」ここに「いる」ことについても、それまでの自分の生きざまの結果として、いいにせよ悪いにせよ、まるごと自分で引き受けなければならないと思っています。それを「生かされている」などと言うのは、自分の人生をあけ渡してしまうように感じられるのでしょう。


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