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I was born [『唯信鈔文意』を読む(その85)]

(9)I was born(吉野弘)

 一方、「生かされている」ということばを「ありがたい」と感じる人は、すでにここに「いる」ことに他力を感じているのです。その人の眼ははるかに遠い過去、気がついたときにはもうすでにこの世にいたときに注がれています。それからの人生は自分が創ってきたにしても、そもそもの始まりは紛れもなく「生かしめられた」。  
 「I was born」(吉野弘)です。そこからすれば、自分がいまここに「いる」ことにも他力を感じるのです。
 回心とは、いまここに「いる」ことに他力を感じるようになることですが、そのこと自体が他力であることをもう一度確認しておきたいと思います。回心しようとして回心するのではありません、ふと気がついたらもうすでに回心していたのです。「回心する」のではありません、「回心せしめられる」のです。
 自分の人生は自分が創ってきたと思っている人が、あるときふと「生かされている」ことに無上の喜びを覚える、これが回心です。回心はそうしようと思ってすることではありませんから、どうすれば回心できるかという問いは成り立ちませんが、どんなときに回心が起こるかには答えられそうです。
 それについて親鸞は「みづからがみをよしとおもふこころをすて」と言います。また「具縛の凡愚、屠沽の下類」とも言っています。目の前に「内なる悪」が立ち上がってくるということです。
 一見、関係のない話のように思えるかもしれませんが、ここで「人生の目的」と「人生の意味」について考えておきたいと思います。ある本(『人生に意味はあるか』講談社現代新書)を読んでいまして何か違和感を覚え、これはいったいどこから来るのだろうと考えているうちに、そうかと思い当たることがあったのです。
 

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