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生きる目的と生きる意味 [『唯信鈔文意』を読む(その86)]

(10)生きる目的と生きる意味

 この本の著者(諸富祥彦氏)は「人生の目的」と「人生の意味」の間の微妙な違いを意識せずに使っているのですが、それが「何だかおかしいな」と感じさせる元になっているようなのです。
 まあしかし「目的」と「意味」の微妙な違いなど一向に気にすることなく同じ意味で使うのが普通です。「人生の目的が分からない」と「人生に意味が感じられない」は同じことでしょう。
 この本にはこうあります、「人間は生きる『意味』や『目的』さえ摑むことができれば、たいていの苦難には耐えていけます。けれどもそれを欠いては、辛いことばかりのこの人生を耐えることなどできはしません。人間は苦難そのものにでなく、その苦難に『意味がないこと』に苦しむ存在だからです」と。
 ここに、生きる「意味」や「目的」を〈摑む〉とありますが、ぼくの違和感はここからくるようです。
 「目的」なら〈摑む〉でいいと思いますが、「意味」は〈摑む〉ものでしょうか。ここに微妙な違いがあると思うのです。先ほど言いましたように、「目的」と「意味」は同じように使われるのが普通です。それはそれでいいのですが、微妙に違う場合があるのではないかと言いたいのです。生きる目的はあっても、生きる意味がないという場合があるのではないかということです。
 どういうことか。
 再度「これから」何かを「する」ことと「もうすでに」ここに「いる」ことの区別をもちだしますと、生きる目的は「する」ことに関わり、生きる意味は「いる」ことに関わります。

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