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サルトル [『唯信鈔文意』を読む(その87)]

(11)サルトル

 ぼくら団塊世代が若かった頃、実存主義が流行りました。当時はマルクス主義全盛時代でしたが、既成のマルクス主義に欠けているものを埋めてくれる思想として実存主義が注目されたのです。鍵となるのが「主体性」でした。既成のマルクス主義に欠けている主体性を実存主義が埋めてくれると感じられた。
 サルトルはこう言います、「ぼくらは意味もなくこの世界に投げ出されている。自分が何ものであるかは前もって定められていない。だからこそ、自分が何ものであるかを自分で創りだしていく自由があるのだ」と。この思想をぼくらは熱狂的に迎えました、「そうだ、ぼくらの人生はぼくらが創りだしていくのだ、自由なのだ」と。
 さて、これを先ほどの「する」と「いる」の対概念を使って言い直しますと、ぼくらがここに「いる」ことの意味は定められていない、だからこれから何を「する」かはぼくら自身が決定していく自由があるのだ、となります。
 これを下敷きにして言いますと、生きる目的は「これから」何を「する」かに関わりますから、みずから摑みとっていかなければなりません。どこかにすでにあるのではないかと探し回っても無駄で、自分で創りだしていくしかありません。
 さてしかし、生きる意味はどうなるでしょう。生きる目的をみずから摑みとれたら、生きる意味もおのずから定まってくるじゃないかと言われるかもしれません。目的がはっきりすれば、意味はおのずからついてくると。そう言える人は幸いなるかな、その人には目的も意味も同じことです。
 しかし、「もうすでに」ここに「いる」ことの前でじっとたたずむ人がいます、「ここにいていいのか」と。
 「ここにいていいのか」という問いの前にただずむのは、「これから」何を「する」かの前で立ち止まるのとよく似ていますが、その重さにおいてまったく異なると言わなければなりません。後者の問いは、何かの拍子に生きる宛てが見つかりますと、嘘のように消えてしまうでしょう。しかし「ここにいていいのか」の問いは依然としてずっしり重い。


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