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『唯信鈔文意』を読む(その89) ブログトップ

そのままそこにいていい [『唯信鈔文意』を読む(その89)]

(13)そのままそこにいていい

 「いまここに〈いる〉資格があるのか」という問いは自らは出てきません。向こうから突きつけられるのです。
 「もうすでに」ここに「いる」ことは、「これから」何かを「する」ための前提条件ですから、その前提条件に疑問をさしはさむことは原理的にできません。疑問をさしはさむことも「する」ことですから。したがってこの問いは「オレはこのまま生きていていいのか」という形で自ら発するのではなく、「おまえはそのまま生きていていいのか」という形でどこかからやってくるのです。
 そして、ここにほんとうの不思議がありますが、この問いが目の前に突きつけられ「なんともなりません、おたすけください」というため息が出るとき、それに木霊するかのように「そのまま生きていていい」という声が聞こえるのです。いや、その声はずっとむかしからあったのに、これまで気づかなかったことに驚くのです。どうしてかと言われても、どういうわけかそんな風になっているとしか言いようがありません。
 「生かされている」ということばがしみじみとこころに沁みるのはこのときです。
 『教行信証』の末尾に「悲喜のなみだ」ということばがあります。「悲喜こもごも」とはよく言いますが、これは悲しみと喜びが次々と入れ替わってやってくるということです。悲しみの後に喜びがきて、そうかと思うとまた悲しみが、というように。しかし「悲喜のなみだ」はそうではないでしょう。悲しみのなみだがそのまま喜びのなみだであり、喜びのなみだがそのまま悲しみのなみだであるということに違いありません。「なんともならない」という悲しみのなみだが、そのままで「もうすでに救われている」という喜びのなみだであるという不思議。
 そのことにふと気づくのが回心です。

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