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れうし・あき人 [『唯信鈔文意』を読む(その92)]

(16)れうし・あき人

 「安城御影(あんじょうのごえい、三河安城に伝わることからこう呼ばれる)」という親鸞の肖像画があります。それをとりよせて詳しく見た存覚(覚如の長男)によりますと、親鸞は狸の皮を敷いて座り、畳の前には猫の皮で作られた草履が描かれ、また鹿杖(かせづえ)の手をそえる部分にも猫の皮が巻かれているようです。また「熊皮御影」では、その名のごとく、熊の皮に座っています。このようにいろいろな獣の皮を身近に使っていたということは、親鸞と「れうし」との近しい関係を暗示しているのではないでしょうか。
 『歎異抄』第13章の一節が思い出されます。「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」。これは「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべ」きことを言う中で親鸞が述べたことばとして紹介されていますが、このような言い回しの中にも親鸞が社会の底辺にいた人々の側に身を置いていたことがよくうかがわれます。
 さてしかしここから、親鸞は差別される側に立って、差別する人たちに立ち向かおうとしているという構図を描くことはできません。
 悪人正機説について、悪人とは「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」のことであって、そうした社会の底辺にいるわれらこそが救われるというこのメッセージは、世の中に対する大いなるプロテストであり、社会変革の狼煙であるという解釈にときどきお目にかかります。そのように解釈したくなる気持ちはよく分かりますが、それは親鸞のこころの色あいを読み違えていると言わなければなりません。
 親鸞は人間を上類(善人と言ってもいい)と下類(悪人でしょう)を分け、下類の立場で上類に立ち向かっていこうとしているのではありません。みんな下類だと言っているのです。


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