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後世ではなく、今生をよろこぶ [『唯信鈔文意』を読む(その94)]

(18)後世ではなく、今生をよろこぶ

 われらは「後世をたのむ」ことができるだけで、今生に仏になることを期することはできない、これが伝統的な浄土教の常識です。
 いま、ふと思い立って『一言芳談』を読んでいます。これが編まれたのは親鸞の死後(14世紀前半、編者不詳)ですが、ここに出てくる芳談は、いかに「後世をたのむ」かということに尽きます。今生のことにかまけることなく、後世に思いをかけよ、この一点です。親鸞の後も、念仏の行者たちにとって、焦点は今生ではなく後世にあったのだということが痛感されます。
 それに対して親鸞の真骨頂は、本願に遇うことができた「いまをよろこべ」ということです。もっと大胆に言えば、後世のことなんてどうでもいい。「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」です。なぜなら、本願に遇うことができて、もうすでに摂取されているのですから。
 だから、後世に仏になることが「こがね」になることではなく、今生に摂取不捨されることが「こがね」になることなのです。「かわら・つぶて」は何の値打ちもありませんが、弥陀の光明に摂取されてみれば今生において「こがね」のひかりを放ち始める。
 この言い方でもまだ底にいきついたとは言えません。こう言うべきでしょう、これまではただの「かわら・つぶて」であったものが、あるときふと、もうすでに「こがね」であったことに気づくのだと。「かわら・つぶて」が突然「こがね」に変るのではありません。そんな手品のようなことが起こるわけがありません。そうではなく、「かわら・つぶて」と見えていたものが、実はもうずっと前から「こがね」であったことにいまはじめて気づいたのです。
 目からウロコが落ちたのです。

               (第6回 完)

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