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善導の文 [『唯信鈔文意』を読む(その95)]

               第7回

(1)善導の文

 さて『唯信鈔』に引用されている三つ目の文、善導の『法事讃』の文です。

  極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)
  随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう)
  故使如来選要法(こしにょらいせんようぼう)
  教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぶせん)

 読み下しますとこうなります。

  極楽は無為涅槃の界なり。
  随縁の雑善(それぞれの縁に応じてなすさまざまな善)おそらくは生じがたし。
  ゆゑに如来、要法(往生のための肝要な方法)を選びて、
  教えて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり。

 これまでの流れをおさらいしておきますと、聖覚はまず第17願のこころを表すものとして法照の文を引き(第2回から第4回に取り上げました)、次に第18願のこころを明かすものとして慈愍の文を引いたのでした(第5回、第6回がそれに当ります)。
 そのあと聖覚は難行・易行の違いを明らかにして、こう言います、「浄土門にいりて諸行往生をつとむる人は海路にふねにのりながら、順風をえず、ろをおし、ちからをいれて、しほぢ(潮路)をさかのぼり、なみまをわくるにたとふべきか」と。
 そして次に専修・雑修(せんじゅ・ざっしゅ)の二行を比較して、こう言います、「善導和尚ののたまはく“専をすてて雑におもむくものは、千の中に一人もむまれず、もし専修のものは、百に百ながらむまれ、千に千ながらむまる”といへり」と。そしてこの「極楽無為涅槃界、云々」の文がそれに続くのです。
 この流れからしまして、ここでは専修念仏がテーマとなっているのですが、それに対する親鸞の注釈は縦横無尽にひろがり、味わい深いことばが次々と出てきます。結構長いので3段に分けまして、今回はその第1段で「極楽無為涅槃界」の解説です。それをさらに二つに分け、まず前段から。


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