SSブログ
『唯信鈔文意』を読む(その97) ブログトップ

この如来、微塵世界にみちみちたまへり [『唯信鈔文意』を読む(その97)]

(3)この如来、微塵世界にみちみちたまへり
 
 ここでは「極楽無為涅槃界」について注釈されていますが、「極楽」も「無為」も「涅槃」もみな同じ意味で、それがさらに「涅槃おば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなわち如来なり」と次々に言い換えられています。
 われらはいま「娑婆」で「煩悩」に苦しんでいるのですが、その対極にあるのが「極楽」であり、それは「無為」、「涅槃」等々の世界であるわけです。
 ここから「娑婆=煩悩」vs.「極楽=涅槃」という対比となり、そしてさらに前者には「群生」が、後者には「如来」が対応するはずですが、親鸞は直後にこう言います、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり」と。
 こちらにわれら群生の世界として娑婆があり、あちらに如来の世界として極楽があるのではなく、如来はこの群生海にみちみちたまうというのです。としますと、こちらに煩悩の世界があり、あちらに涅槃の世界があるのではなく、煩悩の中に涅槃がみちみちているということになります。
 しかし娑婆に如来がみちみちたまふというのはどういうことでしょう。煩悩の中に涅槃がみちみちているというのはどういうことか。
 源信が『往生要集』に引用している経文にこんな一節があります、「婬欲(貪欲のこと)は即ちこれ道(菩提です)なり。恚・痴(瞋恚と愚痴)もまたかくの如し。かくの如き三事の中に、無量の諸仏の道あり。もし人ありて、婬・怒・痴と及び道とを分別すれば、この人、仏道を去ること、譬へば天と地の如し」(無行経)。 


『唯信鈔文意』を読む(その97) ブログトップ