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どうして怒りが [『唯信鈔文意』を読む(その100)]

(6)どうして怒りが

 ほんとうに一方だけが悪いのでは諍いにならないでしょうか、ちょっと思考実験をしてみましょう。
 自分にはまったく非がなく、相手が一方的に悪いと思われる場合。例えば、まったく身に覚えがないことで隣人から口汚く罵られたとしましょう。突然「ばかやろう」と言われたら、「ばかやろうとは何だ」と怒りが爆発するのが普通です。こうして激しい諍いに発展していくのですが、この場合、悪いのは向こうだけで、こちらに非はないのでしょうか。
 そう見えます。こちらには一点の非もありません。
 ここで立ち止まってみずからを省みましょう。どうして怒りが爆発したのか。身に覚えがないことで罵られたからには違いありませんが、相手はただ何か勘違いをしているだけかもしれないではありませんか。誰かから根拠のないうわさ話を聞いて、それを真に受けているだけなのかもしれない、そんなことが頭をかすめないでしょうか。
 でもそんなことを思うより先に腹立ちがやってきます、「なんだ、こいつは」と。この腹立ちをよくよく見ますと、「なんでオレが口汚く罵られなくちゃいけないのか」、「オレはお前なんぞに罵られる筋合いはない」という自尊心=コンプレックスがその底にあるのが分かります。ぼくらにはこのコンプレックス(優越感と劣等感は実は同じです)という厄介なヤツが居座っています。人によりその強さに違いがあるでしょうが(ぼくはかなり強いと感じます)、多かれ少なかれこれが腹の中にあり「ちくしょう」という怒りを引き起こしているのではないでしょうか。
 「オレはお前なんぞに」という思いは「オレがお前なんぞに罵られるのは何かの間違いだ」ということです。「こんなはずじゃない」と、ありもしない「ほんとうの自分」に執着しているのです。実際は「隣人に口汚く罵られている自分」がいるのに、どこかに「みんなから称讃されるはずの自分」がいると思う。

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