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煩悩の氷が解け、菩提の水となる [『唯信鈔文意』を読む(その101)]

(7)煩悩の氷が解け、菩提の水となる

 どんなに正義はこちらにあり悪いのは相手であるとしても、こちらに「こんなはずじゃない自分」に対する執着があるから、怒りが込み上げてきて諍いになるのではないでしょうか。もしそうした執着がなければ、相手がどれほど理不尽に罵っても、「あなたは何か勘違いしているのではないですか」と穏やかに対応することができ、この対応には相手も拍子抜けをして怒りのトーンも一挙に落ちると思うのです。諍いにならない。
 このように考えてきますと、どんなときも諍いの原因はこちらにもあるということになります。「こんなはずじゃない自分」に対する執着があるから喧嘩になる。そう気づかされてはじめて煩い悩むのです。自分の穢れに苦しむのです。これが煩悩であり、塵労です。
 さて、怒りながら、「あゝ、自分への執着が怒りの原因だ」と気づいたとき、もう怒りは収まっていないでしょうか。かっと燃え立った怒りが鎮火していないでしょうか。これが「煩悩の氷が解け、菩提の水となる」ということです。源信は「煩悩と菩提とは、体はこれ一なり」といい、氷と水のようなものだと言っていました。氷と水では見かけはまったく異なりますが、本質は同じH2Oです。
 同様に、煩悩と菩提も見かけは真逆ですが、本質は同じですから、煩悩が解ければ菩提となるのではないでしょうか。いや、こう言うべきかもしれません、煩悩はもうすでに菩提であるのに、これまではそれに気づいていなかっただけのことだと。
 こちらに煩悩の娑婆があり、あちらに涅槃の極楽があるのではなく、煩悩の中に涅槃がみちみちているということについて見てきました。としますと、こちらに群生の娑婆があり、あちらに如来の極楽があるのではなく、この娑婆世界に如来がみちみちたまうというのも同じことでしょう。

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