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仏とひとし [『唯信鈔文意』を読む(その103)]

(9)仏とひとし

 『歎異抄』第15章で唯円が言っていますように、「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふ」のであって、われら凡夫と仏の境界線を消してしまうような言い方はもってのほか。それは禅であっても浄土ではない。
 確かに、本願に遇うことができたとしても、それで仏になるわけではありません、依然として煩悩具足の凡夫のままです。その意味では凡夫と仏の区別をしっかりつけなければなりませんが、でも、しかし、but、凡夫のままで「仏とひとし」と言うところに親鸞の真骨頂があると思うのです。本願に遇うことができたら、仏とおなじではないが、仏とひとしいのだと。
 かの土にしてかならず仏となれるとしますと、そのことを忘れさえしなければ、凡夫のままでもう仏であると言ってもいいではありませんか。
 おたまじゃくしはかならず蛙になるのですから、おたまじゃくしは蛙であると言ってもいい。AはかならずBとなるとしますと、AとBの見かけはどれほど違っていようと、体はひとつであるということです。そして、AはBとなるのですから、Aの本質はBであると言うこともできますし、BはAから出てきたのですから、Bの本質はAであると言うこともできます。凡夫の本質は仏であるとともに、仏の本質は凡夫であると。
 本願に遇えたことで、凡夫が仏になるのではありません、むしろ凡夫が凡夫となるのです。でも、凡夫は「われは凡夫である」とはっきり気づくことで、仏にひとしくなるのです。娑婆が浄土になるのではありません、娑婆が娑婆となるのです。娑婆も「ここは娑婆だ」とくっきり気づくことで、そこはもう浄土にひとしくなるのです。

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