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専修と雑修 [『唯信鈔文意』を読む(その111)]

(3)専修と雑修
 
 先回は「極楽無為涅槃界」の部分の注釈でしたが、ここで残りの「随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」に注釈が施されています。この部分が「専修」の教えに関するところで、「もはら」弥陀の名号を称することについて詳しく説かれますが、ここでもおのずから親鸞色が滲み出ています。
 本題に入る前に、ちょっと気になることがあります。それは「故使如来選要法」を「釈迦如来よろづの善のなかより名号をえらびとりて」としているところです。名号を選んで悪衆生に与えたのは弥陀如来ではなく釈迦如来だというのです。これはもとの善導の文章からそう解釈せざるをえないのですが、どうしても違和感をもってしまいます。
 五劫思惟して、名号をもって衆生を救おうと誓ったのは弥陀如来ではないのでしょうか。もちろん釈迦は弥陀の誓いを伝えているのですから、名号を衆生に勧めるのは当然ですが、釈迦が名号を選んだと言われると「えっ」と思わざるをえません。親鸞のなかではもう弥陀も釈迦も渾然一体となっているということでしょう。
 さて、ここで話題となっているのは「ただ念仏」か「念仏も」かということです。前者が専修で後者が雑修。
 前に述べましたように(第5回)、法然らしさの核心は「選択」にあります。「これを取り、あれを捨てる」という精神に貫かれています。それが一番よく出ているのがいわゆる「三選の文」です。
 「それ速やかに生死を離れむと欲(おも)はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(お)いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲はば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛(す)てて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を脩せむと欲はば、正助二業の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり」(『選択本願念仏集』)。

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