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往生には「ただ念仏」 [『唯信鈔文意』を読む(その112)]

(4)往生には「ただ念仏」

 ちょっと基本のおさえですが、ここで正行といいますのは、読誦(どくじゅ、浄土経典を読むこと)、観察(仏・浄土を思い浮かべること)、礼拝、称名、讃嘆供養(仏をほめたたえ、供物をささげること)の五行で、それ以外のすべての行(例えば孝養父母、奉事師長など)が雑行です。そして、五行の中で称名だけが正定業で、それ以外の四つが助業。
 まず聖道門を捨て、浄土門を取り、次いで雑行を捨て、正行を取り、さらに助業を捨て、正定業を取る。かくして「ただ念仏」ということになるわけです。この専修念仏が法然浄土教と言えますから、専修か雑修かというのは核心的な問いですが、ただこれを考えるときよほど注意が必要です。
 と言いますのは、この問いは「これから」浄土へ往くのに「ただ念仏」の専修か、それとも「念仏も」の雑修かというように受けとられるからです。それ以外にどう受けとることができるのかと言われるかもしれません。聖覚の論のすすめ方はまさにそうですし、聖覚に限らず、法然門下の人たちはみなそうでしょう。いや、そんな昔のことではなく、いまだってこの受けとめが一般的だと言わなければなりません。「これから」浄土へ往かせてもらうのに「ただ念仏」か、それとも「念仏も」なのかと。
 縁あってあるお坊さんの説教を聞かせてもらったことがあるのですが、まず驚くのは、そのしゃべりの滑らかさです。ことばがつかえることなく流れるように繰り出されてくるのには舌を巻きます。さすがプロだなあと思わせます。そして難しいことを身近な譬えで分かりやすく語るテクニックも他の追随を許さないものがあります。
 ただ、ぼくには「これはどうも」と思わざるをえないことがあります。真宗のプロのお坊さん(しかもかなり指導的な立場の方のようです)に失礼だとは思いながら、しかしこれは言わざるをえません。

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