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「これから」と「もうすでに」 [『唯信鈔文意』を読む(その113)]

(5)「これから」と「もうすでに」

 このお坊さんはよく「後生の大事に驚きの立つとき」と言われます。もとは蓮如のことばでしょう、「人間いずれ死ぬということに思い立ち、後生の一大事に気づくとき」ということです。それが「念仏まうさんとおもひたつとき」だと言われます。
 そしていつも言われるのは、六道では生まれては死ぬことを繰り返さなければならないが、お浄土へ往くことができれば、いつまでも生きられるということです。「お前さんがたは近々死ぬが」とあっけらかんと言うことで笑いをとり、その上で「しかしお浄土へ往けば、永遠に生きられるんですから、こんないいことはありません」と言われます。
 聴衆の大半がたぶんお坊さんと同じか、より年上の方々であることから、おのずとそのような話になるのは分からないではありませんが、それにしてもお坊さんの眼が「これから」に向いていることに「ちょっと違うなあ」と感じざるをえないのです。親鸞の眼は「これから」ではなく「もうすでに」に向いているのではないかと。
 「これから」永遠に生きるのではなく、「もうすでに」無生の生を生きている、ただそのことに気づいているかどうか―これがぼくの親鸞です。それは真宗の親鸞ではないと言われても、「残念ですが、これがぼくの親鸞ですのであしからず」と応じるしかありません。
 話を戻しまして「専修と雑修」ですが、この「修」が曲者です。これは「修行」ということですから、どうしても眼は「これから」を向かざるをえません。「これから」浄土へ往かせてもらうのに、「ただ念仏」か、それとも「念仏も」なのかと。そこで親鸞は「一行」に加えて「一心」を持ち出します。
 「専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり」とした上で、「復はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また専といふは一心なれとなり」というように、「一行」から「一心」へと重心を移していくのです。そして「一心」とは「ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを専といふなり」と噛み砕いてくれます。

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