SSブログ
『唯信鈔文意』を読む(その119) ブログトップ

どうすれば気づけるかには答えがない [『唯信鈔文意』を読む(その119)]

(11)どうすれば気づけるかには答えがない

 まだ気づかせてもらっていない人を気づきへと導くのがお寺であり、お坊さんであり、説教の役目であるというのが普通の答えでしょう。これは、ことばとしては至極当然のように聞こえますが、その意味することをよくよく考えてみますと、背理に満ちていることが分かります。
 説教をするお坊さんの立場に立って考えてみましょう。「もうすでに」浄土にいることに気づいていない人を気づきへ導こうとするからには、どうすればその気づきに至ることができるかを知っていなければなりません。
 どうすれば浄土に至ることができるかではありません。それは「これから」浄土へ往くにはどうしたらいいかということですが、いま問題になっているのは「もうすでに」浄土にいることに気づくにはどうしたらいいかです。
 これまで折にふれて述べてきましたように、この問いに答えはありません。なぜならこれは気づこうとして気づけるものではないからです。あるとき思いがけず気づいてしまっているのです。としますと「どうすれば」に対して答えることは不可能です。
 もし「こうすれば気づけますよ」と語る人がいるとしますと、その人は「わたしはこのようにして気づくことができました」と言っているのであり、その気づきは自力によるということになります。気づかせてもらったのではなく、気づきを自分で手に入れたのです。
 そして気づきを自力で手に入れるということは、本質的に「これから」という性格をまとわざるをえません。「これから」手に入れようとして、首尾よく手に入れたということを意味するのです。これは「もうすでに」気づいてしまっていたのではありません。

『唯信鈔文意』を読む(その119) ブログトップ