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気づかなければ存在しない [『唯信鈔文意』を読む(その120)]

(12)気づかなければ存在しない

 「どうすれば気づくことができるか」を語ることはできないと述べてきましたが、今度は説教を聞く側に立って考えてみましょう。「もうすでに」浄土にいることに気づいていない人にとって、お坊さんの説教はどんな意味があるのでしょう。
 本願に気づかず、浄土に気づいていないということは、その人にとって本願も浄土も存在しないということです。
 これまた耳にたこができるほど繰り返し述べてきたことですが、気づかせてもらわなければならないことは、それに気づいていなければ、その人にとって存在しません。みずから知らなければならないことは、それを知らないからといって存在しないことにはなりません。しかし、気づかせてもらわなければならないことは、気づかせてもらってはじめて存在します。そうでなければ存在しない。
 存在しないに等しいのではありません、存在しないのです。
 「あっ、あなたでしたか、気づきませんでした」というようなことはよくありますが、この場合の「気づく」は「知る」と同じで、知ろうとおもえば知ることはできたが、たまたま知らなかったと言っているのです。ですから、知らなかったとしても、あなたが存在していたことは動きません。
 本願や浄土に気づく場合はこれと異なり、気づこうとして気づけるものではありませんから、気づかないということは存在しないということです。本願や浄土はことばとしては存在するでしょう。そして家が浄土真宗でしたら、それらについての説教を聴くこともあるでしょう。しかしそれにどんな意味があるのか。お伽噺を聴いているようなもので、そこに宗教的な意味はありません。


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