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願作仏心はすなわち度衆生心 [『唯信鈔文意』を読む(その123)]

(2)願作仏心はすなわち度衆生心

 本文14で「もはら」の意味を「ふたごころ」のないことであり、そしてそれは「よこさまに」ということだと解き明かした後、ここでこの「横超の信心」のありようについてさらにことばを重ねていきます。
 まずは天親(正確には曇鸞と言うべきです。親鸞にとって天親の『浄土論』と曇鸞の『浄土論註』は一体不可分です)の「願作仏心」を持ち出します。真実の信心とは「仏にならむとねがふ」こころだと。これまで述べてきたことからしまして、これは自分から「仏になりたい」と願うことではありません、弥陀から「仏になってくれよ」と願われていることにふと気づくということです。
 だからこそ「この願作仏心はすなはち度衆生心なり」と言えるのです。もし願作仏心が、自分から「仏になりたい」と願うこころでしたら、それがどうしてそのまま度衆生心、つまり「衆生をして生死の大海をわたすこころ」であるのか、にわかには呑み込めません。
 自分だけが救われるのではなく一切衆生の救いをめざすのが大乗仏教であるのはその通りですが、でも、どうして自分が救われることがそのまま一切衆生が救われることであるのかは自明ではありません。「願作仏心」とは「仏になってくれよ」と願われていることにふと気づくことだとして、はじめてそれが了解できるのです。
 本願とは弥陀の「一切衆生を仏としたい」という願いですが、それはわれらから言いますと、弥陀から「仏になってくれよ」と願われているということです。それに気づくことが本願に遇うことに他なりません。そして弥陀から「仏になってくれよ」と願われているのは自分だけでなく、生きとし生けるものみなですから、弥陀にとって願作仏心はそのまま度衆生心であることが了解できるのです。
 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」ということばが『歎異抄』の後序に出てきます。これは本願に「遇ひがたくしていま遇うことえた」喜びからほとばしり出たものでしょう。そしてそのとき、「ひとへに親鸞一人がため」と思うことは、「一切衆生がため」であることとまったく矛盾しません。

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