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体と用 [『唯信鈔文意』を読む(その127)]

(6)体と用

 体とは本体のこと、そして用(ゆう)とはそのはたらきのことです。これは便利なことばで、源信は氷と水とは体はひとつだが、その用が異なると述べています。いまの場合、如来が体で仏性が用ということになります。このように体と用を分けることで、ものごとがはっきりしますが、その反面、大事なことを見失ってしまうこともあります。
 ぼくらはものごとをはっきり見ようとしますと、どうしてもいろいろに分析(分離)しなければなりません。前に原因と結果についてややこしい話をしたことがありますが、原因・結果というのも、ものごとを明確に見るために、これは原因、これは結果というように分離しているのです。体と用も同じで(西洋哲学では実体と属性ということばで表現されてきましたが)、これは体で、これは用と分離しています。
 さて、こんなふうに分離することが身体に馴染みますと、さまざまな用から切り離された体そのものを考えるようになります。
 例えば、ぼくという人間は、相手に応じてさまざまなはたらきをしています。カルチャーセンターの受講生に対してはその講師としてのはたらき、妻に対しては夫としてのはたらき、などなど。さてぼくがカルチャーセンターの講師をやめるとしましても、それでぼくがぼくでなくなるわけではありません。また、夫でなくなるかもしれませんが、それでもぼくはぼくでしょう。
 というようなことから、さまざまなはたらき(用)から切り離されたぼく自身(体)があるような気がしてくるのです。ちょうど着ているものをすべて脱いでも、裸のぼくがいるように。これが曲者で、何かはたらき(用)があると、そこにはそのはたらきとは切り離されたなにものか(体)があると思ってしまう。

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