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仏性が如来、それ以外に如来はない [『唯信鈔文意』を読む(その128)]

(7)仏性が如来、それ以外に如来はない

 もともとひとつであったものを、はっきり見るために体と用に分離しただけなのに、それをいつの間にか忘れてしまい、体と用は別もので、用を離れて体があると思ってしまう。実体化という罠です。
 如来と仏性についても同じです。もともとひとつであるものを、如来という体と仏性という用に分けただけなのに、いつの間にか仏性から切り離された如来があると思い込んでしまう。そしてこう言うのです、如来が仏性を持っていると。まず如来という実体があり、しかるのちに仏性というはたらきをするというイメージ。
 しかし仏性というはたらきが如来であって、それ以外に如来はありません。阿弥陀仏の本願と言います。これも、どうかするとまず阿弥陀仏がいて、しかるのちに本願というはたらきをしているというようにイメージしてしまいます。しかし本願というはたらきが阿弥陀仏であって、それ以外に阿弥陀仏はありません。
 「信心すなわち仏性なり」に戻りますと、われら衆生に如来を信じるはたらきがあるのではなく、如来のはたらきである仏性がわれらにやってくるのだということでした。そしてその如来のはたらきが如来なのだということ。それ以外にどこにも如来はないということです。
 としますと、われらが如来すなわち仏性の方へ近づいて行くのではなく(それは天地がひっくり返っても不可能です)、如来すなわち仏性がわれらの方へやって来るのです(「如来」と訳されたサンスクリットは「タターガタ」で、「タター」つまり真実が、「アーガタ」つまり到達している、という意味です)。そしてわれらと如来は一体となっている。
 どうして如来と一体なんてことが言えるのか、何の根拠があるのか、と抗議されるかもしれませんが、それには「もうすでに摂取不捨されているとふと気づいたのです」と答えることしかできません。

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