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『唯信鈔文意』を読む(その129) ブログトップ

本文16 [『唯信鈔文意』を読む(その129)]

(8)本文16

 この信心をえがたきことを『経』には「極難信法(ごくなんしんぽう)」とのたまへり。しかれば『大経』には「若聞斯経信楽受持難中之難無過此難(にゃくもんしきょうしんぎょうじゅじなんちゅうしなんむかしなん)」とおしへたまへり。この文のこころは、もしこの経をききて信ずること、かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなしとのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は五濁悪世にいでてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたるとときたまふ。さてこの智慧の名号を濁悪の衆生にあたえたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠(しょうじょう)、恒沙(ごうじゃ)如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちちはは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして自力の大菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりていま願力にまうあふことをえたり。他力の三信心をえたらむひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

 (現代語訳) この信心の得がたいことをある『経』(『阿弥陀経』の異訳である『称賛浄土教』)には「きわめて信じることが難しい法」と説いています。同じことを『大経』には、「もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん」と教えてくださっています。この文の意味は「この経を聞いて信じるのは、難しい中にさらに難しく、これ以上に難しいことはない」ということです。釈迦牟尼如来は、さまざまな穢れと悪に満ちた世にお出ましになり、この信じるのが難しい法によって無上の涅槃に至ることができるとお説きになりました。そしてこの智慧の名号を濁悪の衆生にお与えになると説かれています。十方世界の諸仏が名号の真実を証明してくださり、無数の如来がお護りくださるのも、ひとえに真実の信心を持つ人のためです。釈迦は慈父であり、弥陀は悲母です。われらの父と母は、さまざまな方法で無上の信心を開き起こしてくださるのだと知らなければならないということです。(われらは)限りない昔から無数の諸仏が世にお姿を現されたそのもとで自力で悟りを開こうとの気持ちを起こしてきました。そうして無数の善根を積んできたことによって、いま本願に遇うことができたのです。ですから至心、信楽、欲生の他力の三信心を得た人は、決してそれ以外の善根を修する人を謗ったり、他の仏や聖人を卑しめたりしてはなりません。

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