SSブログ
『唯信鈔文意』を読む(その132) ブログトップ

無我とは他力ということ [『唯信鈔文意』を読む(その132)]

(11)無我とは他力ということ

 仏教の概説書などを読みますと、われらは「わたし」に執着して苦しんでいるのだから、「わたし」を捨てなければならない。そうすれば苦しみから解放された涅槃の境地に入ることができる、というように書いてありますが、もしほんとうに釈迦がそう言ったとすれば、それは不可能を求めるというものです。麻原彰晃が空中浮遊を追求したのと何も変わりません。いや、それよりさらに無茶なことを求めるものです。
 ちょっと考えてみてください、「わたし」を捨てるのも「わたし」です。とすれば「わたし」を捨てることなどできるわけがないではありませんか。
 では無我とは何か。それは、ふと気がつくと「わたし」の牙城をすり抜けて本願が届いているということです。「わたし」が「わたし」の牙城を崩すことはできませんが、何ということか、気がついたらもう牙城が崩され、すでに本願が届いているのです。そしてそれを信じている「わたし」がいるのです。
 「わたし」が本願を信じたのではありません、「わたし」は如来に本願を信じさせられたというしかありません。そんなの嫌だ、それでは「わたし」が「わたし」ではなくなると騒ぎ立てても、もう後の祭りです。すでに信じさせられているのですから。これが無我ということです。
 無我とは他力ということです。「わたし」が本願を信じるのではなく、信じるこころそのもの(仏性)を如来から賜る、これが他力の信です。「そんなのおかしい、“わたし”が本願を信じてはじめて信じることになる」と言いはる人は、実はまだ他力に気づいていない人です。気づいてしまったら、それがおかしかろうが何であろうが、そこに現に他力があるのです。

『唯信鈔文意』を読む(その132) ブログトップ