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実はもう気づいている [『唯信鈔文意』を読む(その133)]

(12)実はもう気づいている

 このように見てきますと、「かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」であるのは他力に「気づく」ことだということになります。ある人はどういうわけか本願力に気づき、ある人はどういうわけか気づかない、これが「かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」ということです。
 第8回のところで言いましたように、「どうすれば本願力に気づけるか」という問いには残念ながら答えはありません。気づこうとして気づけるのでしたら、「どうすれば」は大事な問いですが、ふと気づいてしまっていることについては、こうすればもああすればもありません。
 ある方からこんなふうに言われました、「ぼくには気づきがあるという実感がないのですが、どうすれば気づけるかに答えがないといわれますと、すごく冷たい感じがします」と。ごもっともです。「あなたがまだ気づいていないのは残念ですが、何ともなりません」と言われるのは、置いてきぼりを食らったような感じでしょう。
 しかし、ここで立ち止まって考えてみたいと思うのですが、その方は実はもう気づいているのではないでしょうか。
 源信の『往生要集』に「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」という不思議なことばがあります。弥陀の光明を見ることはできないが、つねにわが身を照らしてくださるというのです。これを読んで、見ることができないのに、どうして照らしてくださると言えるのかという疑問が浮かばないでしょうか。

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