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貪愛瞋憎の雲霧 [『唯信鈔文意』を読む(その135)]

(14)貪愛瞋憎の雲霧

 『歎異抄』第9章は何度読んでもおもしろい。唯円が「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふ」とおそるおそる親鸞に相談しますと、わたしも「この不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」という返事が返ってきたと言うのです。
 いま読んでいるこの段にも「この信心をうるを慶喜といふなり」とあります。本願に遇うことができますと、天に踊り、地に躍るほどの喜びが湧き出してくるというのですが、どうも自分にはそういうことがない、これはどうしたことだろう、ほんとうに本願に遇えていないのかもしれない、という不審です。
 「ぼくには気づきがない」と言われる方も同じではないでしょうか。気づけたというのはきっと身もこころも晴ればれとすることに違いないが、自分にはそんな実感がない、だからまだ気づけていないのだと思う。親鸞は「それでいい」と言うのです、「そんなものだ」と。
 なぜかと言えば、「よろこぶべきこころををさへて、よろこばせざるは煩悩の所為」だからです。
 ぼくらは本願に遇うことで「その心つねにすでに浄土に居す」、「もう仏とひとしい」とは言えますが、身も心も浄土へ往ったわけではありませんし、もうすでに仏となったわけでもありません。ここはこれまでと何も変わらない娑婆ですし、自分は煩悩まみれの凡夫のままです。
 「貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆」っていますから、ぼくらの喜びにも雲霧がかかっていて、すっきり秋晴れとはいかない。でもそれは紛れもなく「真実信心」なのです。

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