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前世の縁 [『唯信鈔文意』を読む(その137)]

(16)前世の縁

 親鸞は前世がどうのこうのという話は極力控えているという感じがします。もちろん前世や来世を否定するわけではありませんが、積極的に肯定するわけでもなく、黙して語らずの姿勢をとるようにしているような気がします。ここにぼくらは親鸞の新しさを感じるのです。
 前世も来世もまだ誰も行ったことがありませんから、それについて何かを言うべき手がかりがまったくありません。ですから釈迦のひそみにならって「無記(イエスともノーとも言わない)」を貫く。
 ところがここではその姿勢が一変しているのを感じます。前世で善根を修したことにより、今生で本願に遇うことができたのだというように、前世と今生を積極的に結びつけているのです。伝統的な浄土の教えに先祖がえりしたのでしょうか。
 伝統的な浄土の教えでは(そしてそれは今日においてもしばしば見え隠れしているのですが)、前世で善根を積むことで、いま人としての生を受けることができたわけで、今生で悪業を重ねると来世は悪趣(地獄・餓鬼・畜生の世界)に落ちなくてはならない。折角人間に生まれることができたのだから、そうならないように本願を信じ念仏して来世では浄土に往生させてもらわなければならない、と説かれます。
 もし親鸞がこの教えに先祖がえりしたとしますと、もう親鸞が親鸞でなくなったように感じます。弥陀の本願に「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」という喜びの中で、前世の縁を感じるのは分からないではありません。ちょうど恋の喜びに浸っている人が「ああ、二人は前世の縁で結びついていたのだ」と感じるように。しかし…。

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