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ゆめゆめ余の善根をそしるなかれ [『唯信鈔文意』を読む(その138)]

(17)ゆめゆめ余の善根をそしるなかれ

 なぜだかよく分からないが、でも強い必然性を感じるときに、それを「前世の縁」と表現するのは理解できるとしても、戸惑いを覚えるのは「自力の大菩提心をおこしき」という文言であり、「恒沙の善根を修せしによりて」という言い回しです。「自力の善根」を否定し続けた親鸞がどうしてそんなことを言うのかと引っかかるのです。
 謎は最後の一文、「他力の三信心をえたらむひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり」で解けます。「そうか、それが言いたかったのか」と納得できるのです。他力の信心を強調するあまりに、自力の善根を否定し謗るという過ちを戒めているのです。
 専修と雑修をくらべて、専修念仏(「ただ念仏」)は他力の念仏であるのに対して、雑修の念仏(「念仏も」)は自力の念仏だと断じられます。それはまったくその通りなのですが、ただ、ともすると専修の立場から雑修の人を謗るという過ちに陥ってしまう、「われは真、かれは偽」と。
 親鸞にとって真の反対は偽ではなく化です。真とはすでに本願力に気づいていることで、化はいまだ気づいていないこと。他力に気づいていませんから、自力で何とかしようとさまざまな善根を積もうとするのです。それを「そんなことでは救いはない」などと謗るのはもってのほかと戒めているのに違いありません。
 親鸞自身、法然の専修念仏に出あうまでは、叡山で自力の仏道修行を続けていたのです。そして法然との出会いを機に自力の無効に気づいた。そんな思いから、われらが今生で「願力にまうあふことをえた」のも、前世で「恒沙の善根を修せしに」よるかもしれないではないかと述べているのだろうと思うのです。

                (第9回 完)

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