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『観経』の三心と『大経』の三信 [『唯信鈔文意』を読む(その140)]

(2)『観経』の三心と『大経』の三信
 
 この部分はかなり複雑で、一筋縄ではいきません。まずことばをきっちり理解しておきましょう。聖覚は専修が雑修に優れていることを説いたあと、専修とは「ただ名号を称える」ということだが、そのとき「三心を具せざ」れば往生はできないと述べます。「よの中に弥陀の名号をとなふる人はおほけれども、往生する人のかたきはこの三心を具せざるゆへなり」と言うのです。
 ここで三心というのは『観経』の三心で、「念仏も」ではなく、「ただ念仏」でなければならないといっても、そこに三心が備わっていることが不可欠だと述べ、善導の注釈を引用するのです。「この三心を具してかならず往生を得るなり。もし一心かけぬればすなはち生ずることを得ず」。
 三心とは至誠心(しじょうしん、真実のこころ)、深心(じんしん、深く信じるこころ)、回向発願心(えこうほつがんしん、浄土へ往生したいと願うこころ)で、善導はこれを注釈する中で、味わい深い二種深信の話や二河白道の譬えを出してきます。聖覚も法然にならってそれを祖述していきますから、話は『観経』の三心を巡って展開しているのです。
 ところが親鸞は、この善導の「もし一心かけぬればすなはち生ずることを得ず」の文言から、『大経』の三信へ話を移していくのです。善導の文で「もし一心かけぬれば」というのは、至誠心、深心、回向発願心の中の一心が欠ければということなのに、親鸞は「一心かくるといふは、信心のかくるなり。信心かくといふは、本願真実の三信のかくるなり」と話を転換していくのです。
 本願真実の三信とは、言うまでもなく第十八願の至心、信楽、欲生の三信です。「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん」の至心、信楽、欲生。このように『観経』の三心から『大経』の三信へ話を急に転換するのは、あまりに唐突という印象を与えます。

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