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顕彰隠密 [『唯信鈔文意』を読む(その142)]

(4)顕彰隠密

 そして三心についても同様のことが言われます。『観経』の三心は、「もし衆生ありて、かの国に生まれんと願う者、三種の心を発さばすなわち往生す。なんらか三となす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。この三心をそのうれば、必ずかの国に生まる」と説かれています。
 これはわれら衆生が「かの国に生まる」ためにそなえなければならない三心で、『大経』の三信とは異なると言わなければなりません。親鸞によれば、『大経』の三信は如来から回向されるものだからです。われらが回向する三心と如来回向の三信、まったく違うように見えます。
 これもしかし見かけ上のことで、『観経』の三心も実のところ『大経』の三信と同じで、如来から回向される信心であるというのです。
 『教行信証』「化身土巻」において親鸞は顕彰隠密(けんしょうおんみつ)ということばを使い、表に現れた意味(顕)では両者は異なるが、裏に隠された意味(隠)では同じものだと論じています。つまり『観経』の三心は『大経』の三信を説くための(われらから言えば、『大経』の三信に転入するための)方便だというのが親鸞独特の捉え方です。
 ここではそれを「『観経』の三心をえてのちに『大経』の三信心をうる」と言い、あるいは「『観経』の三心は定散二機の心なり。定散二善を回して『大経』の三信をえむとねがふ方便の深心と至誠心としるべし」と述べているのですが、説明抜きでこれだけを読めば何のことかよく分かりません。
 ともあれ親鸞にとって『観経』の三心を欠くということは、取りも直さず『大経』の三信(が収束するところの信心)が欠けるということなのです。かくして「三信かけぬるゆへに、すなわち報土にむまれずとなり」という結論に落ち着くことになります。

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