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至誠心 [『唯信鈔文意』を読む(その147)]

(9)至誠心 

 聖覚は善導の「もし(三心のうち)一心かけぬればすなはち生ずることを得ず」を引用した後、三心(至誠心、深信、回向発願心)のそれぞれについて解説していくのですが、至誠心に関連して、「ほか(外)には善心あり、たうときよしをあらはして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。これを虚仮のこころとなづけて、真実心にたがえる相とす」と述べます。
 そしてそのすぐあとにこれまた善導の「不得外現賢善精進之相内懐虚仮(外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ)」を引用するのです。これは『観経疏』「散善義」に出てくることばで、「内にいつわりのこころを懐きながら、善人のような顔をしてはいけません」ということです。
 上に普通の読み方を示しました、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と。法然も聖覚もこう読んだに違いありません。ところが親鸞はこう読むのです、「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と。これは読み下しとしては少々無理があると言わざるをえませんが、でも親鸞にはそうとしか読めない。
 ふたつの読みの違いは明らかでしょう。前者は「内に虚仮を懐くことを得ざれ」と言うのですから、「まことのこころ」になりうると考えています。われらのうちに「虚仮のこころ」があるのは確かだが、努力すれば「まことのこころ」になれるのだと。
 ところが後者は「内に虚仮を懐けばなり」と断定します。われらのこころは虚仮に決まっていると言うのです。どう転んでも「まことのこころ」になどなれるわけがない。「悪人であっても、努力することで善人になれる」と言うのと、「われらは骨の髄まで悪人で、どう頑張っても善人にはなれない」と言うのとの違いです。

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