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真実は向こうから [『唯信鈔文意』を読む(その151)]

(13)真実は向こうから

 この段を読んでいまして「この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべし云々」の一文がどうにも唐突に感じられます。「この信心」と言うのですが、その前は、「こころのうちに煩悩を具せるゆへに、虚なり仮なり」ということが述べられていますから、「この」がどこにかかるのかすぐには分かりません。
 そのさらに前に戻りまして、本文17の最後のところ、「三信をえむことをよくよくこころえねがふべきなり」につながっていることが了解できます。信心が欠けたら往生できないのだから、信心をえるようこころがけ願わなければならない、と説かれていたその信心について「まことの浄土のたねとなり、みとなるべし」と述べられているのです。
 つまりこういう流れです。信心が欠けたら往生できません、butわれらには「虚仮のこころ」しかありません、butこの信心が浄土の種であり実となるものです、というようにまた元に戻っているのです。
 そしてそれに続くのは、またもや「うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ」ということで、どうも流れがギクシャクしていると言わざるをえませんが、親鸞が言いたいのは、信心が欠けたら往生できないのに、われらには虚仮のこころしかない、とすれば信心は如来から与えられるしかないということです。
 それは「いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり」という文言に滲み出ています。われらは「いつわり、かざり、へつらうこころのみ」ですが、この信心は「いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる」のですから、これはわれらのものではなく、如来から賜ったものであることが明らかだと。
 聖覚は往生するためには「まことのこころ」にならなければならないと言いますが、親鸞はわれらは「まことのこころ」になることはできず、それは如来から賜わるのだと言う。両者の違いは歴然としています。

                (第10回 完)

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