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我執という悪 [『唯信鈔文意』を読む(その155)]

(4)我執という悪

 しかし無我の対極にあるものとしての我執ということばを持ち出しますと、俄然、悪との親近性が出てきます。考えてみますと、釈迦の問題意識は生老病死の苦をどう乗り越えるかというところにあり、苦の根本原因として煩悩を見いだしたのでした。そして煩悩とは取りも直さず我執のことですから、釈迦にとって己のなかに巣くう我執という悪こそ問題の根本にあったのです。
 我執という悪から如何にして離れることができるのかという問いに対して、無常や無我を自覚することと答える、これが釈迦です。
 大乗仏教の流れのなかで無常や無我は空という思想に深められていくことになりますが、そのように精緻な思索が積み重ねられていくことで、この世界をどう見るかという理論的な面が表に立ち、問題の根本である悪へのまなざしが薄れていく結果となります。如何にして無我や空を悟ることができるかに目が奪われていくのです。
 この大乗仏教のなかに浄土の教えがかたちを取りはじめ、他力の思想が生まれてきます。無我や空を悟ることはもはや末法の世の凡愚の身には不可能というしかなく、仏の本願力により浄土に往生させていただき、そこで悟らせてもらうより他ないと。かくして焦点が悟りから往生へと移行し、目はおのずと今生から来生へと向けられていきます。
 ここでもまた、仏教の根本にあったはずの「己のなかに巣くう悪」の問題が等閑にされていく結果となったのではないでしょうか。こうして「今生の悟り」(聖道門)にしても、「来生の成仏」(浄土門)にしても、問題の核心にあった我執という悪がどこかに置き去りにされていったようです。

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