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一念か多念か [『唯信鈔文意』を読む(その160)]

(9)一念か多念か

 聖覚はまず、信心を大切にする人の言うこととして、「往生浄土のみちは信心をさきとす。信心決定しぬるには、あながちに称名を要とせず。『経』にすでに乃至一念ととけり。このゆへに一念にてたれりとす。徧数(へんじゅ)をかさねむとするは、かへりて仏の願を信ぜざるなり」という論すなわち一念義を上げます。
 当時このように説く人たちがひとつの勢力をなしていたと思われます。幸西(こうさい)や行空(ぎょうくう)―いずれも承元の法難で流罪となります―がその代表的な人物です。因みに、『経』に「乃至一念」と説かれているといいますのは、『無量寿経』の「本願成就文」に「信心歓喜 乃至一念」とあるのと、流通分(経の結論部分)に「歓喜踊躍 乃至一念」とあるのを指しています。
 聖覚はこの一念義に対して、次のように、かなりきついことばで論難します、「まづ専修念仏といふて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ、まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」と。この短い文章に、聖覚の立ち位置がよく現われているような気がします。
 聖覚はこれまでのところで法然の教えを祖述しながら専修念仏の立場を称揚してきたのですが、こころのどこかにわだかまりが残っているような気がしてなりません。「ただ念仏」でなくても、念仏と並べて「もろもろの大乗の修行」、例えば経典の読誦を行うのはべつに悪くないのではないかと。
 そんな思いがあるものですから、「信心決定しぬるには、あながちに称名を要とせず」などという論に対しては「魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかす」ものと罵りたくなるのではないでしょうか。やはり聖覚は「行の人」だと言わなければなりません。

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