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念仏する数は問題ではない [『唯信鈔文意』を読む(その161)]

(10)念仏する数は問題ではない

 もちろん聖覚は法然の教えのつぼをしっかり心得ている人ですから、「徧数をかさねずば往生しがたし」などとは言いません。一念義は誤りで、多念義が正しいというような単純な論は張りません。こう言います、「一念といえるはすでに経の文なり。これを信ぜずば仏語を信ぜざるなり。このゆへに、一念決定しぬと信じて、しかも、一生おこたりなくまふすべきなり」と。
 さすがに一分の隙もないと言わなければなりませんが、しかし基調は「一生おこたりなくまふすべき」にあることは明らかで、「善導和尚はちからのつきざるほどはつねに称念すといへり。これを不信の人とやはせむ(これを不信の人といえるだろうか、いや、いえない)」ということばに聖覚の立場がはっきり出ています。
 さて親鸞ですが、「乃至」ということばに注目し、これは「かみ・しもと、おほき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきおも、みなおさむることば」で、称名の徧数などは問題ではないのだと言います。「乃至十念」とは「多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめむがため」に言われているのだと。
 聖覚もそう言うだろうと思います、「一念か、それとも多念か」ということではないと。しかしそうは言っても、やはり「一生おこたりなくまふすべき」とするのが聖覚です。それに対して親鸞は称名の徧数などまったく問題ではないという立場です。ただ一念でもいいし、一生おこたりなくでもいい、そんなことはことの本質に何の関係もないと。
 この違いはどこからくるのか。やはり「これから」往生をめざすのと、「もうすでに」往生していることに気づくのと、これです。

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