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聖覚の譬え [『唯信鈔文意』を読む(その162)]

(11)聖覚の譬え

 「これから」往生をめざすというスタンスですと、「一念決定しぬと信じて」とは言うものの、一旦信じたからもうそれでよしということにはならす、信をその都度確かめなければなりません。聖覚の出している譬えで言いますと、「たとへば人ありて、たかききしのしもにありてのぼることあたはざらむに、ちからつよきひと、きしのうへにありてつなをおろして、このつなにとりつかせて、われきしのうえにひきのぼらせむ」と言うとき、そのことばを信じて、綱を手に取ることが信心です。
 この分かりやすい譬えで、「この綱につかまりなさい」ということばに「ありがとうございます、よろしくお願いします」と一旦綱を手にとったとしても、少し引き上げられたところでふと疑いが兆すかもしれません、「ほんとうに上までいけるのだろうか、綱が切れてしまわないだろうか、引き上げてくれる人の力が尽きてしまわないだろうか」などと。そんなとき不安にかられて綱を手放してしまったら元の木阿弥です。「いや、大丈夫だ、上にいる人の言うことを信じよう」と改めて決意することで、なんとか上に登ることができます。疑いが兆し、改めて信じなおす、その繰り返しです。
 こんなふうに信を確かめつつ、その都度「よろしくお願いします」と念じるでしょうから、おのずと「一生おこたりなくまふす」ことになります。これが「これから」往生をめざす姿です。
 では「もうすでに」往生していることに気づくときはどうか。「ああ、ありがたい、救われた」という気持ちが思わず口をついて出ることでしょう。これが「南無阿弥陀仏」に他なりませんが、「もうすでに救われた」という思いは途切れることなくこころの奥底にありますから、「南無阿弥陀仏」と口に出る数が多いか少ないかなんてどちらでもいいことです。

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