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憶念か称名か [『唯信鈔文意』を読む(その167)]

(2)憶念か称名か 

 本願の「乃至十念」という文言に関連して二つの論点がありました。ひとつはこの「十念」は「憶念か称名か」で、もうひとつが「一念か多念か」。先回は後者が話題となりましたが、ここで前者の「憶念か称名か」が取り上げられます。「仏を念ずる」と言えば、こころの中で仏を思い浮かべることと考えるのが普通ではないかという問いに対して、聖覚は、いやそうではなく、仏の名を口に称えることだと答えます。
 その根拠として聖覚が持ち出すのが『観無量寿経』の下品下生(げぼんげしょう)の段です。「汝若不能念 應称無量寿仏(なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし)」と「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪(十念を具足して、南無無量寿仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて、八十億劫の生死の罪を除く)」がそれです。
 これを聖覚は「五逆十悪をつくりもろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなえて、すなわち浄土にむまるといへり」と要約しています。親鸞もここでこれらの経文を丁寧に注釈しているのです。
 『観無量寿経』は、無量寿仏とその浄土を「観る」こと、すなわち心に念ずることを中心に展開されるのですが、その最後のところで、下品下生のものに対して「もし念ずることあたはずは、まさに無量寿仏を称すべし」とすすめていることに着目したのが善導でした。『観経』の本旨は一見「念」にあるかに見えるが、実は「称」にあるのであり、そこからして第十八願の「十念」もまた「称」の意味であると。これを法然、聖覚、そして親鸞もまた踏襲しているのです。

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