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「念」も「称」もわれらの行ではない [『唯信鈔文意』を読む(その168)]

(3)「念」も「称」もわれらの行ではない

 このように本願の「十念」が「念」ではなく「称」の意味であることでは一致しているのですが、「念」と「称」をどう汲み取るかというところでまたしても違いが滲み出てきます。まず「念」についてですが、こころに仏や浄土を思い浮かべることではあっても、聖覚と親鸞ではその意味あいがかなり異なると言わなければなりません。
 聖覚にとって「念」は難しく「称」は易しい。『観経』そのものがそういう前提で書かれていて、下品下生という、これまで仏法とは無縁であった極悪人でもできるのが「称」だとされているのです。善導の整理にしたがいますと、五つの正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)のなかの観察が「念」に当たり、称名が「称」であるのは言うまでもありません。
 このように、聖覚にとっては(そして浄土教の伝統においては)、「念」も「称」もわれらのなすべき行という位置づけです。そして善導は(そしてそれを受け継いだ法然や聖覚も)、「称(称名)」を正定業とし、「念(観察)」は助業としたのです。もし「念」が正定業とされれば、それに耐えられない凡愚は弥陀の救いから漏れてしまうからです。下品下生の極悪人もなしうる「称」であってこそ、一切衆生の往生が可能となります。これが善導流浄土教の揺るがぬスタンスと言っていいでしょう。
 さてしかし親鸞にとって「念」も「称」も「われらの行」ではありません。どちらも如来から賜るものです。
 まず「念」ですが、これはわれらがこころに仏を思い浮かべようとすることではありません。われらが仏を捉えようとすることではなく、逆に仏がわれらを捉えることです。われらが仏を念ずるのではなく、仏がわれらを念じてくださるのです。われらが仏に「仏よ」と呼びかけるのではありません、仏がわれらに「汝ら衆生よ」と呼びかけてくださるのです。

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