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差異と同一 [『唯信鈔文意』を読む(その173)]

(8)差異と同一

 ひとことで言えば、親鸞にとって法然は「よきひと(善知識)」で、親鸞は法然に遇うことで救われたのです。にもかかわらず、二人の間には見逃せない違いがあります。それは『選択集』と『教行信証』を読み比べてみれば、一目瞭然とはいかないまでも、「やはり違うなあ」と思わざるをえません。
 それは「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらす」のは「これから」であるか、それとも「もうすでに」であるかの違いと言えるでしょう。
 それを聖覚的なものと親鸞的なものの違いとしてこれまで何度も述べてきましたので、もう繰り返しませんが、問題は、〈にもかかわらず〉どうして親鸞は法然や聖覚をかくも持ち上げるのか、どうしてそこにある違いを自分の口からはっきり言わないのかということです。
 親鸞は法然や聖覚について批判めいたことは一切言いません。ただただ「よきひと」として敬愛するのみです。考えてみますと、それは法然や聖覚に対してだけではありません。『正信偈』に明らかなように、印度西天の論家、中夏日域の高僧すべてに対してそうです。彼らを崇めるばかりで、ひとことたりとも否定的なことを言いません。
 ここには何かがあるように感じます。
 だいたい、ものごとの違いは見えやすいものです。反対に、似ているところは見えにくい。ぼくらの眼は差異に対する感度が同一に対する感度よりも格段に勝れているようです。服を選ぶとき、まず紺色よりも茶色の方がいいと選り分け、次いで茶系統のなかでも薄い茶色よりこげ茶色がいい、さらにこげ茶色にしても、こちらの渋いヤツがいいと違いにばかり目がいきます。どれもみな茶色だから同じじゃないかとはならないのです。

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