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何かをするのはすべて自力 [『唯信鈔文意』を読む(その179)]

(14)何かをするのはすべて自力

 やはり「自らの力」があって、はじめて「他の力で何かをすること」ができると言えます。それを裏側から照らしだしてくれるのが尊厳死です。今の医療技術は、本人が生きながらえたいと思わないのに、生きながらえさせることを可能にしました。それが人としての尊厳を侵すのではないかという問題提起が尊厳死です。
 どれほど「他の力」に頼るとしても、人間の尊厳はやはり「自らの力」にあるということです。「自らの力で何かをする」と言っても、そこには多かれ少なかれ「他の力」が入っていますし、「他の力で何かをする」と言っても、そこには必ず「自らの力」があります。としますと、「自らの力で」か「他の力で」かは決め手にならないということです。
 大事なことは、「何かをする」とき、そこに必ず自分がいるということです。自分が何かを「しようとしている」ということ、あるいは何かを「したいと願っている」ということです。これが自力の本質的な意味です。
 自らの力によるか、他の力によるかには関わりなく、「何かをすること」はすべて自力であるということを見てきました。「何かをする」ときには、必ずそこに自分がいて、自分が何かを「しようとしている」からです。まず自分がいて、しかるのちに「何かをする」のです。
 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」とはそういうことです。「何かを思う」ときには、必ずそこに自分がいるということ。「何かをすること」は、食べたり走ったりすることだけではありません、その中には「ものを思うこと」も含まれます。このように考えますと、生きることすべてが自力の色で染め上げられているように思えてきます。

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