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生きんかな [『唯信鈔文意』を読む(その180)]

(15)生きんかな

 心臓は頼まれもしないのに、一時も休まず働いてくれていて、そのお蔭で生きることができる、これが他力ではないか、と言われた女性にもう一度ご登場願いましょう。これは確かに「何かをすること」ではないように見えます。ですからここには自分はいないかの如くです。
 でも、例えば不整脈がひどくてペースメーカーをつけなければ心臓がうまく動いてくれないような場合、ぼくらは自分の意志でペースメーカーを装着します。こんなケースから分かりますように、心臓のお蔭で生きることができるのは確かだとしても、親のお蔭で生きることができるのと同じで、ぼくら自身がそのように「しようとしている」のです。そのように「したいと願っている」のです。
 ぼくらが生きていることは、結局のところ「生きようとしている」こと、「生きたいと願っている」ことにもとづいていますから、その意味ですべて自力だと言わなければなりません。どんなに他の力に頼っているとしても、つまるところは自力です。としますと、他力とはいったい何でしょうか。
 生きることはすべて自力だとしますと、もう他力にはまったく入る余地がないように思えてきます。ここであらためて考えなければいけないのが、この「生きようとしている」こと、「生きたいと願っている」ことです。これを「生きんかな」とあらわしますと、ぼくらが生きているのは、すべてこの「生きんかな」にもとづいています。
 ぼくらの周りのいのちたちを見ていますと、みんな「生きんかな」と必死です。そんなことを意識しているわけではないでしょうが、ひたすら「生きよう、そして子孫を残そう」としています。その一途な姿に感動したりすることもありますが、ぼくらも所詮おなじです、「生きんかな」としているのです。

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