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向こうから問いかけられる [『唯信鈔文意』を読む(その182)]

(17)向こうから問いかけられる

 一般に「問う」というのは「何かをすること」、つまり自力です。何かを問おうとして、あるいは問いたいと思って問うのですから、これは紛れもなく自力です。としますと「このまま生きていていいのか?」と問うのも自力だということになりますが、この問いばかりは様子が違います。この問いは、自分で問おうとしたり、自分で問いたいと思うのではなく、思いがけずどこかから問いかけられるのです。こちらから問いかけるのではなく、逆に、向こうから問いが突きつけられるのです。
 そんなことはいくらでもあるじゃないかと言われるかもしれません。だいたい学校では生徒は先生から問いかけられます。それにうまく答えられるどうかが勉強できるかどうかということです。しかし、学校での問いはほんとうの問いではありません。ほんとうの問いは、答えが分からないから問うのですが、学校の問いは、先生が答えを前もって知っています。先生は答えを知っていて、生徒に尋ねるのです。本来は生徒自身が問いを立て、それに自分で答えていくべきところを、生徒にまだその力がありませんから、先生が生徒に代わって問いを発しているのです。
 学校の問いは擬似的な問いで、ほんとうの問いは自ら問おうとして問うものですから、すべて自力です。ところが「このまま生きていていいのか?」という問いばかりは、自ら問おうとしていないのに、否応なく突きつけられるのです。考えてみてほしいのですが、ぼくらが「このまま生きていていいのか?」と自ら問おうとするでしょうか。これまで見てきましたように、ぼくらが「何かをする」のは、したがって「何かを問う」のも、「これからも生きたい」と思うからです。「生きんかな」がすべての根底にあるのです。その根底に自ら疑いをもつのは天に唾するようなものです。

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