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生きる意味はあるか? [『唯信鈔文意』を読む(その183)]

(18)生きる意味はあるか?

 イスラム教徒は『クルアーン』に記されたアッラーのことばを生きる基盤としています。ですからイスラム教徒はイスラム指導者のさまざまな言動に疑問をもつことはできても、『クルアーン』のことばに疑問を呈することはできません。『クルアーン』のことばに疑問を呈することができるのは、イスラム教の外部からでしかありません。ユークリッド幾何学の公理に疑問を呈することができるのは、非ユークリッド幾何学からでしかないのと同じです。そして「生きんかな」に対する疑いも、「生きんかな」の外部からやってくるしかありません。
 話がいりくんできました。道筋を整理しておきましょう。ぼくらが「何かをする」のは、それをしようと思ってするのであり、したいと思ってするのですから、どんなに他の力に頼ろうと、すべて自力です。そして、何かをしようと思う、したいと思うことの根底には、生きようと思う、生きたいと思うことがあります。これを「生きんかな」ということばで表しました。自力の世界の根底にはこの「生きんかな」があるということです。他の生き物たちはそのことを意識していませんが、ぼくらは幸か不幸か、それに気づくことがあります。どんなふうに気づくかと言いますと「これからも生きようと思っていいのか?」という問いのかたちでやってくるのです。
 この問いを「生きる意味はあるか?」と言い換えることができるでしょう。学生時代のことですが、道を歩いていましたら、突然若い女性から「あなたの生きる意味は何ですか?」と問いかけられたことがあります。何かあやしげな宗教の勧誘だろうとは思いましたが、とても不愉快な気持ちになりました。「なんでそんなことを見ず知らずのあなたに訊かれなくてはいけないのか、しかもこんな往来の真中で」と思ったのです。

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