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「生きる意味があるか」という問いに自分で答えることはできない [『唯信鈔文意』を読む(その185)]

(20)「生きる意味があるか」という問いに自分で答えることはできない

 「そのまま生きていくことにどんな意味があるのか?」という問いに思いがけず襲われたとき、それに自分で答えることはできません。どんなに「意味がある」と答えたくても、そう答えることはできません。試しに自分で「このまま生きていくことに意味がある」と答えてみてください。それでわずかでも何かが変わるでしょうか。
 「意味があるんだ」と100万回叫んだとしても腹が減るだけです。「そのまま生きていくことに意味がある」という答えは向こうからやってきてはじめて答えとして有効となるのです。生きる意味は自分で与えることはできず、向こうから与えられるしかないということです。
 では「意味がない」という答えはどうでしょう。「このまま生きていくことに意味がない」と自分で答えることはできるでしょうか。
 それはイスラム教徒が「豚肉を食べてもいいはずだ」と言うようなものです。「豚肉を食べてはいけない」という『クルアーン』のことばにイスラム教徒としてのしるしがあるのですから、「豚肉を食べてもいい」と言った途端にイスラム教徒ではなくなったということです。あるいは将棋を指しながら「香車は後退していいはずだ」と言うようなもので、そう言った途端、その人は将棋というゲームから降りたということです。
 同じように、「このまま生きていくことに意味がない」と自ら答えることは、その途端に生きるというゲームから降りたということです。
 このように「そのまま生きていくことに意味があるのか?」という問いが突然向こうからやってきても、それにこちらからはウィともノンとも答えられません。その答えも向こうからやってくるしかないのです、「そのまま生きていくことに意味がある」という答えが。

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