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再び自力と他力 [『唯信鈔文意』を読む(その187)]

(22)再び自力と他力

 自力と他力は、こちらに自力の世界、向こうに他力の世界というように横に並んでいるのではありません。「心臓は頼まれもしないのに一生懸命働いてくれているというのが他力ではないのですか」と言われた方にとって、自力と他力はふたつの箱のように並んでいて、「はい、これは自力、これは他力」というように仕分けできるというイメージかもしれませんが、どうもそうではないようです。
 ぼくらが生きることは、すべて自力にもとづいています。生きるということは、何かをすることであり、それは突きつめたところ、生きようとすること、生きたいと願うことです。「生きんかな」とすることです。これが自力ということです。
 としますと他力はどこにも存在の余地がないようですが、あにはからんや、「生きんかな」という自力の根底をさらにその下で支えているのが他力です。「生きんかな」の願いを「生かしめんかな」の願いが支えているのです。弥陀の本願とはこの「生かしめんかな」の願いのことです。
 前に、周りの人たちがある人を何とかして生きながらえさせてやりたいと願っても、肝心の本人が生きながらえたいと思わなければ、何ともならないと言いました。としますと、本人の「生きんかな」があってはじめて周りの「生かしめんかな」が意味をもつということで、いまの話と真逆になります。
 でも、周りの人たちの「生かしめんかな」は、弥陀の本願である「生かしめんかな」とは似て非なるものです。前者の「生かしめんかな」は、心臓や太陽など無数のものたちと同じように、ぼくらが生きる上で欠かせないものですが、それはあくまでぼくら自身が「生きんかな」とするからのことです。
 一方、後者の「生かしめんかな」はその「生きんかな」を支えるのです。前者の「生かしめんかな」は、それがどれほど熱くとも、「生きんかな」を支えることはできません。そもそも「生きんかな」は生きることすべてを根底で支えているもので、それを支えることはできません。ところが、それはふと気がついたらもうすでに支えられているのです、弥陀の本願に。これが他力ということです。

                (第12回 完)

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