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隆寛という人 [『一念多念文意』を読む(その2)]

(2)隆寛という人

 『一念多念分別事』の著者・隆寛という人について一通り見ておきましょう。隆寛が法然の高弟であることは衆目の一致するところでしょう。東大寺僧・凝然は法然の「面受の弟子」として、幸西(こうさい)・隆寛・証空・弁長・信空・行空・長西(ちょうさい)の七人を上げていて、なかでも幸西・隆寛・証空・弁長・長西の五人を法然滅後の中心的指導者として重視しています。(親鸞は当時、歴史の表面に登場していなかったことが分かります。彼の存在が大きくなるのはずっと後になってからです。)
 隆寛以外の人たちを簡単にみておきますと、幸西は一念義を唱え、承元の法難で流罪(『歎異抄』流罪記録では慈円あずかりとなっています)、すぐあとでふれます嘉禄(かろく)の法難でも流罪となった人です。証空は浄土宗西山派の祖とされ、彼も承元の法難、嘉禄の法難に連座していますが、処罰は免れています。弁長は浄土宗鎮西派の祖で、この派が今日の浄土宗の主流となっています(本山が知恩院)。そして長西は念仏以外の諸行でも往生できるという諸行本願義を唱えました(九品寺流とも言います)。
 さて隆寛ですが、幸西の一念義に対して、多念義を唱えた人として知られています。京都東山の長楽寺にいたことから、彼の流派を長楽寺流と呼びます。そして天台僧・定照が法然の『選択本願念仏集』を批判する『弾選択』を著したとき、それに対して『顕選択』を書いて反論したため、それがきっかけとなって嘉禄の法難という大弾圧が起こったことはよく知られています(嘉禄3年、1227年。親鸞はそのころ関東にいて難をまぬがれました)。
 その結果、専修念仏が禁止されるとともに、隆寛・幸西ら三名が流罪となり、『選択集』は禁書とされ、その版木が押収されました。隆寛は弟子に保護され、関東の地でまもなく亡くなっています。(「『唯信鈔文意』を読む」においても述べましたが、法然の有力な弟子と目されていた聖覚は驚くべきことに延暦寺の高僧としてこの弾圧を推進する側にいました。)

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