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『一念多念文意』を読む(その3) ブログトップ

一念義と多念義 [『一念多念文意』を読む(その3)]

(3)一念義と多念義

 このように見てきますと、隆寛は法然亡き後、専修念仏運動の中心にいたことが分かります。彼はこの『一念多念分別事』以外にも『自力他力事』などを著し、親鸞はこれらの著作を聖覚の『唯信鈔』とともに大事にし、関東の弟子たちに読むように薦めています。そして『唯信鈔』に『唯信鈔文意』を著したように、『一念多念分別事』に『一念多念文意』を書いて、弟子たちがそれらの著作に出てくる漢文を読みやすいようにかみ砕いて解説しているのです。
 『唯信鈔文意』のところでも聖覚の感覚と親鸞の感覚のズレについて触れましたが、この『一念多念文意』においても隆寛と親鸞はピッタリ一致しているとは言えません。そこここで微妙な違いが顔を出しています。本題に入る前に『一念多念分別事』の概要をかいつまんで説明しておきましょう。
 この書物(というよりパンフレットとでも言った方がいいほど小さなものですが)の趣旨は、その冒頭にはっきり示されています。

 「念仏の行につきて一念多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これきはめたる大事なり。よくよくつつしむべし。一念をたてて多念をきらひ、多念をたてて一念をそしる、ともに本願のむねにもそむき、善導のおしへをもわすれたるなり」。

 一念義と多念義の争いは法然在世中からあり、何かというと、やれ一念だ、やれ多念だと論争が繰り返されてきたようです。先ほども見ましたように、幸西は一念義とされ、隆寛が多念義とされているのです。一念・多念の争いは無益だから慎むようにと説いている隆寛が多念義とされるのはどうしてか、これはいまのところ疑問のままにしておきましょう。

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