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隆寛『分別事』の概要 [『一念多念文意』を読む(その4)]

(4)隆寛『分別事』の概要

 「一念をたてて多念をきらふ」のが一念義ですが、これは本願の教えにとって「一念の信」が肝心だとする立場で、他方「多念をたてて一念をそしる」多念義は、「念々におこたらず、まさしく往生せんずる其時まで、念仏すべき」と説きます。これをひと言に約めますと「信か行か」ということになります。本願の教えにとって信心が肝心か、それとも念仏が肝心かという争いです。
 考えてみますと『歎異抄』の第十一章から第十八章までの八つの異義はすべてこの「信か行か」の対立から出ていると見ることができます。かように一念・多念の対立は本願の教えにとって本質的な問題を孕んでいるのです。急所を突いているからこそ、いつまでもくすぶり続けると言えます。
 親鸞はこの問題に対してどういうスタンスをとったのか、これを明らかにしたいというのが本稿の目標です。
 さて隆寛は『分別事』において、まず「多念をたてて一念をそしる」多念義に対してものを申します。一念の大切さを説くのです。そのために(1)善導の『往生礼讃』の文、(2)『無量寿経』下の第十八願成就文、(3)『無量寿経』下の三輩段の文、(4)『無量寿経』末の弥勒付属の文、(5)善導の『往生礼讃』の文を引いています。
 そして後半で「一念をたてて多念をきらふ」一念義に対して、「多念をひがごとといふ」べからざる所以を説きます。そのために(1)『無量寿経』第十八願の文、(2)『阿弥陀経』の文、(3)善導の『観経疏』散善義の文、(4)善導の『法事讃』の文、(5)善導の『往生礼讃』の文を引くのです。
 このようにこの書物は、経典や善導の注釈をもとにして、これらは一方で一念の大切さを説き、他方では多念の大切を説いているのだから、「一念をたてて多念をきらひ、多念をたてて一念をそしる」のはどちらも片手落ちだと論じているのです。

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