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無常観 [『一念多念文意』を読む(その6)]

(6)無常観

 多念というのは、一念一念がつもりつもって多念になるのだから、一念と多念は決して別ものではないということ、つまり多念といえども、その一つひとつは一念だということです。どうして一念が一念で終ることなく、つもって多念になるのかという疑問に隆寛は、いつも臨終だと思って念仏するからだと答えます。日々「ただいまや、この世のおはりにてあるらんと、おもふ」こころで念仏を称えていると、それがつもりつもっておのずと多念になっていくのだということです。もっと言えば、毎日が臨終だから、ここを先途の一念は臨終が先に延びるにつれて多念となる。
 この説明は一見したところ浄土の教えにかなった真っ当なものに思えますが、その一方で、何か違うなという感じもします。親鸞ならこうは言わないだろうという気がするのです。
 まずこの隆寛の文章で際立っているのがいわゆる無常観です。「無常のさかひは、むまれてあだなるかりのすがたなれば、かぜのまへのともし火をみても、草のうへのつゆによそへても、いきのとどまり命のたへむことは、かしこきもおろかなるも、ひとりとしてのがるべきかたなし」などという文章は、この時代を覆っていた無常観の常套的な表現と言えるでしょう。
 思い出すままに上げてみますと、鴨長明は『方丈記』を「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と書き出し、『平家物語』は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もついにはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」と始まります。時代は少し下りますが、吉田兼好の『徒然草』、あるいは『一言芳談』なども無常観に満ち満ちています。
 このように見てきますと、無常こそこの鎌倉という時代の時代意識と言ってもいいように思えます。

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