SSブログ
『一念多念文意』を読む(その11) ブログトップ

われらに「常に」はない [『一念多念文意』を読む(その11)]

(11)われらに「常に」はない

 「正信偈」に「摂取心光〈常〉照護(摂取の心光、つねに照護したもう)」とか「大悲無倦〈常〉照我(大悲ものうきことなく、つねにわれを照らしたもう)」とあります。このように、如来の光明は「ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはず」にわれらを照らしてくださるのです。
 しかし、われらには何ごとにしても「おりにしたがふて、ときどきも」がせいぜいのところです。われらには「常」はありません。まさに「無常」です。親鸞には「はかなさ」としての無常はないと上に述べたところですが、「われらのこころは常ならぬもの」という意味の無常、つまりアートマンは存在しないという無常は仏教徒としての常識です。
 隆寛の言うように臨終の一念で往生が定まるとしますと、一日として気を抜くことはできません。無常の風が吹くなかにあって、いついのちが終るか分からないからです。つねに気を緩めることなく臨終の備えをしておかなければなりません。「念々におこたらず」念仏をしなければならない。これはしかしわれらにとってどうにも無理があります。忘れないようにしなければと思っても、ついつい忘れてしまうのがわれらです。忘れては、その都度もう忘れないようにしようと誓う。これがわれらの「つねに」であって、「常」ではなく「恒」です。
 『唯信鈔文意』において、親鸞は慈愍三蔵の「聞名念我」ということばを注釈し、念我とは憶念のことであり、そして「憶念は信心をえたるひとはうたがひなきゆへに本願を〈つねに〉おもひいづるこころのたえぬをいふなり」と述べています。この「つねに」も「常」ではなく「恒」だと言わなければなりません。「おりにしたがふて、ときどきも」です。
 本願に遇えた喜びは「たえる」ことはありません。でも「四六時中いつも」こころに「おもひいづる」わけではないでしょう。ついつい忘れるのです。しょうもないことに腹を立てているとき、本願を忘れています。でも「たえた」わけではありませんから、まもなく思い出し、おのれを恥じるのです、「いかん、いかん」と。これがわれらの「つねに」です。

『一念多念文意』を読む(その11) ブログトップ