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ゾウさんはゾウさんとして救われている [『一念多念文意』を読む(その16)]

(3)ゾウさんはゾウさんとして救われている

 その「聞く」ことについて、親鸞は「本願をききて、うたがふこころなきを聞といふなり」と言いますが、これはどういう事態をさしているのか、わが身に引きつけて具体的に考えていこうと思います。
 たとえば、あるとき突然うっとりするようなメロディが聞こえてきた場面を想像してみましょう。「あゝ、これは何だろう、どこから聞こえてくるのだろう」と不思議に思うより前に、何よりそのメロディラインの美しさに陶然としてしまいます。身体全体がその曲想に満たされる。「本願をききて、うたがふこころなき」というのはそのような事態ではないでしょうか。
 さてしかし本願はメロディではありません、願いです。そしてそれが聞こえるということは願いが声になっているということです。どんな声かといいますと、「生きとし生けるものが一人の例外もなく安心して生きることができますように」。もっと具体的に「あなたはそのまま生きていていいのですよ」、「あなたはもうそのままで救われているのですよ」という声でしょうか。ゾウさんはゾウさんとして救われている、アリさんはアリさんとして救われている、そしてあなたもあなたとして救われていますよ、ということ。
 存在がそのまま肯定されるのです。
 まずもってこのような名状しがたい経験があります。うっとりするようなメロディが聞こえてくるときと同じように、こんな声が聞こえてきますと、「あゝ、この声は何だろう、どこからくるのだろう」と不思議に思うより前に、この声のありがたさに身もこころも満たされてしまいます。

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