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名状しがたい経験 [『一念多念文意』を読む(その17)]

(4)名状しがたい経験

 ぼくのささやかな経験をご紹介しますと、ある日、家の近くの散歩道を歩いていましたら、向こうから老夫婦がやってこられます。ご主人は足が悪いのでしょう、杖をついておられ、その横を気遣うように奥さんが寄り添っておられます。そしてお二人はぼくとすれ違いざま「こんにちは」とにこやかに挨拶してくださったのです。
 こんな経験はよくあることかもしれません。でもそのときの「こんにちは」はぼくの胸に染みとおり、「そのまま生きていていいのですよ」と聞こえたのです。お二人がそんなことを言われるはずがありません、にもかかわらすそう聞こえて、不思議な思いにとらわれました。
 そしてそのときふと思ったのです、「あゝ、これが本願か」と。親鸞が「ききがたくしてすでにきくことをえたり」というのはこのことか、「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」(『歎異抄』第1章)というのはこういうときのことか、と。お二人の「こんにちは」に、もちろんぼくもすぐさま「こんにちは」と応じましたが、それはぼくの「南無阿弥陀仏」だったのです。
 これが「本願をききて、うたがふこころなき」ということです。
 この経験よりずっと前からぼくは親鸞に親しんでおり、法蔵菩薩の名も本願ということばもぼくのこころの中にあったのは確かです。その意味では本願の方が先で、その後にこの経験があるのですが、しかし以前は、ただの本願物語、法蔵物語にすぎなかったと言えます。それが正真正銘の本願となり、現実の法蔵菩薩になった。あの老夫婦の「こんにちは」が本願の声であり、老夫婦が法蔵菩薩なのです。「むかしの本願がいまはじまる」(曽我量深)のです。

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